戦前台湾の公学校における「話し方」の研究授業
−新屋公学校『教育研究綴』から−


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戦前台湾の公学校における「話し方」の研究授業
−新屋公学校『教育研究綴』から−
交流協会高雄事務所文化室
日本語専門家  泉 史生
 
はじめに
 台湾は1895年から1945年までの50年間、日本が植民地として領有し、そして領有開始早々から植民地教育を行い、その中心には日本語教育があった。

 戦前台湾の教育は、日本人子弟が通う「小学校」と台湾人子弟(一部原住民子弟)が通う「公学校」に分けられていた。公学校の特に低学年は当時で言う「国語」の「話し方」「読本」を中心とした授業体系であった。現在の台湾の小学校は公学校時代から引き継いでいるところが少なくない。現台湾桃園縣新屋郷にある新屋国民小学もそのうちの一校である。

 最近、台湾の小学校ではあいつで戦前日本の植民地時代の教育現場資料を公開している。新屋国民小学でも大量の戦前日本時代の学校関係文書を公開し始めた。新屋文書は文書綴りだけでも30点以上あり、戦前の公学校の実態を知る上でも貴重な一級資料である。

 当研究は新屋公学校の文書の中から『教育研究綴 昭和五年度』の中にある「中郡主催話し方ヘ育研究会?末」という「話し方」の研究授業の記録を考証検討し、どのように日本語を教えようとしたかを考察した。日本語教育史の考証を試みるものとして本稿を提出したい。日本語教育史研究は先行現場、先行事例・先行研究・先行結果を提示する。これは学習者がどのように日本語を学んできたかの現場考証でもある。この研究は過去のことであっても、先の4つの視点で考えれば、現代において過去と同じ事をしていないかどうかの検証をさせてくれるものである。
1・現場資料を使った研究状況
 台湾における戦前日本語教育について、戦後では蔡茂豊氏が『中国人に対する日本語教育の史的研究−台湾を中心として』で系統的に論じて以来、様々な研究者が、研究発表をおこなってきた。しかしながら現場資料に基づく研究は少なく、多くは官方の資料によるところが多かった。これらの研究からは政策研究や印刷教材の研究は進んだ。台湾の政治状況を考えると、現場資料による研究はなかなかできなかった事情もあった。暗黒の時代を通り抜け、台湾分館に閲覧できる大量の日本時代の文献が守り通され、それを基に戦後、植民地教育研究が始まったことを考えれば、活字を通した文献研究は植民地時代の「日本研究」の下地を作ってきたと考える。

 1980年代になると、台湾総督府文書の公開に端を発し、自筆の公文書の分析が始まり、それによって教科書編纂のやりとりの様子もわかってきた。しかしながら、公文書とは違う、学校現場ではどうしていたのか、その実態にはなかなか近づけなかった。それは現場の自筆記録がなかなか見つからなかったことによる。口述記録も大切ではあるが、それを裏付ける資料が見あたらなかった。

 2000年代の前後になると、各地で創立100周年を迎える国民小学(*1)が、相次いで記念誌作成を行いそれに伴って、様々な現場資料の公開が始まり、戦後の動乱を生き抜いた資料が続々出てきた。新屋文書もそのうちの一つである。
2・いきさつ
 新屋公学校の文書のことは国立台湾師範大学の大学院生であった何憶如氏が修士論文(*2)(Big-5)にまとめた。
  この論文により新屋公学校の大量の日本時代の文書が公開された。新屋文書を保存している新屋国民小学は2004年、百周年を機に校史館に文書を保管、また展示している。何氏の内容から、100周年の記念日に新屋國小に赴き、実際に文書を閲覧し『教育研究綴』を手にした。それを見ると当時の教師の姿が浮かんでくる思いであった。
 
3・台湾教育に対する認識
 現場資料と出会う以前の台湾教育に対する考え方は、雑誌『台湾教育』に散見される教科の指導案や、視学の報告などから、それを前提にした認識であった。すなわち第一に戦前の公学校における教育は教師の個人的な努力による。第二に学校での教学上の研究は各学校ごとに行っていた。第三に台湾教育会は教師が個人加盟するものの、雑誌を通して、教授の向上、教員に対する啓蒙など行う組織であった、という認識であった。

 もちろん皇民化教育は校長や軍事上の圧力もあって、組織的に上からの指示でなされていたものという認識をしていた。
4・『新屋公学校教育研究綴 昭和五年度』の内容
 『新屋公学校教育研究綴 昭和五年度』の内容をみていくと、文書数は全部で82、面数でいくと文字記載のある面が389面あった。記録は昭和五年度から九年度まであったが、八年が極端に少ない。文書67の『中郡國語演習會次第』、文書62『國民精神涵養徹底ニ関スル件』の下書き原稿以外は全て謄写印刷(通称ガリ版)である。

 国語関係は82文書中、23文書ある。内容から区分すると、研究会などに関わる文書2、12、14、31、35、42、43、47、研究授業の批評会の記録として文書44、49、指導案としての文書56、70、スピーチ大会プログラムの文書67,統計文書71、72、73、74、75、76、77、78、79、80とに分けられる。

 研究に関わるものは、研究会の実施に関するもの、研究する内容に関すること、研究に関する事務連絡や人事などである。研究授業の批評会の記録は、会議そのものの口述記録であるが、箇条書の様になっている。発言者のポイントが記されていることから、極めて貴重な記録である。指導案については当時どのように現場指導しようとしたかがみえてくる極めて貴重な記録である。

 これらの文書が活字印刷された書籍文献と違うのは、現場で討議されたものを即謄写印刷して、関係者に配られたことである。また討議用に配布されたと思われる資料として文書43がある。綱目(シラバス)として作成されたものもでも、活字印刷のように大量にしかも金額が発生するものと違って、現場の先生方がその場で考えていたことがリアルタイムに見ることができるため、当時の学校の中を見ることができる。
5・分 析
5−1 研究部会の構成
  国語研究部会の組織的な構成は<文書2>『国語研究部研究項目』から州単位(新屋の場合は新竹州)の研究部会と<文書12>『國語研究會總會決議事項』から郡単位(新屋の場合新竹州中郡)の研究部会とからなっていることがわる。昭和9年度の新竹州の公学校数は90校(分校は本校として計算)(*3)ある。その90校は各郡(中郡(11)・桃園郡(12)・大溪郡(7)・新竹郡(14)・新竹市(4)、竹東郡(10)・太湖郡(5)・竹南郡(12)・苗栗郡(15))がまとめていることが、この研究部会の構成からも見て取れる。そのうち新屋公学校の所属する中郡には11校ある。分教場は昭和五年度は草?坡分教場が、昭和六年度には床屋分教場が参加している。昭和7年度の中郡の構成は、中尋常小学校、中公学校(現中國小中市)、大崙公学校(大崙國小中市)、南勢公学校(南勢國小平鎮市)、楊梅公学校(楊梅國小楊梅鎮)、草坡分学校(瑞埔國小楊梅鎮)、伯岡公学校(富岡國小楊梅鎮)、新屋公学校(新屋國小新屋郷)、大坡公学校(大坡國小新屋郷)、公学校(永安國小新屋郷)、観音公学校(観音國小観音郷)、新坡公学校(新坡國小観音郷)、床屋公学校(床屋國小平鎮市)である。 
                             
 <文書14>『中郡教育研究部員』と<文書31>『昭和六年度中郡教育會教育研究部員並ニ部員の研究部会』の構成を見てみると、昭和5年度の国語研究部会は日本人教師、校長も含めて7人に対し台湾人教師は27人である。昭和6年度は日本人教師、校長4人に対し、台湾人教師17人と台湾人教師が多い。なぜこのような人数関係になたのかはさらに考察が必要である。昭和7年の教員数は全体で5,604人(台湾籍教師3,160人・日本籍教師2,444)である(*4)
 昭和7年の新屋公学校の教師構成(*5)は校長、周藤(すとう)袈藤治。当時の担任は下記の通りである。
 第一学年 魏訓堂、第一学年 陳石海、第二学年 朱陳華、第三学年 沈月枝、第三学年 傅兆謙、第四学年 林進發、第四五学年 鄭光源、第五学年 石黒勘太郎 第六学年 大坪竹次郎であった。日本人3名に対し、台湾人教師7名である。新屋公学校の教師構成では台湾人教師の方が多い。昭和8年度になると日本人教師が一人増員されている。
5−2 研究授業の例
 <文書49>『中郡主催話し方ヘ育研究会顛末』の例を見ていきたい。これは、魏訓堂訓導による、「話し方談話授業第一學年」の研究授業である。参観者は國語研究部会の会員30名前後である。新屋文章には昭和7年度の会員記録が欠落しており、参観者の全容はわからないが昭和五年度、六年度の会員の様子から、各学校から必ず1名ないし1名以上は参加していることを考えると、教師の移動が多少あったとしても、台湾人日本人教師の数が極端に変動するとは思えない。しかしながら國語研究部会に参加している台湾人教師の比率は非常に高い。          
 魏訓堂訓導は南勢公学校を卒業後台湾師範にて教員免許を取得している。大正14年に楊梅公学校に教員として採用され、新屋公学校には昭和6年転勤で赴任している。「考査表」(*6)によれば「言動容儀言動穏健ニシテ思想健実ナリ。何時モハ容儀ヲ正シウスレドモ特ニ乱ルヽコトアリ」「才能 特ニ秀デタル才能ヲ有セズ」「長所 自分ニテ之レト取リ立テテ云ウホドノ長所ナシ」「短所 短氣 粗暴 熱シ易ク冷メ易イ」「習癖 喫煙」「國語台湾語 家庭ハ勿論、相手、場所ヲ問ハズ總ベテ國語の常用ニ努ム。現ニ努メツヽアリ」。この記述が性格どうかはわからないが、教師の人物評価もされていたこともうかがえる。                     
 <文書49>には泉が便宜的に発言に番号を振った。ここでは<>の番号で表す。それに基づいて見ていきたい。 また、漢字はできるだけ当時の記述に拠った。(尚、第の略字がないため第をあてた)
<文書49>
1    郡主催話し方ヘ育研究会顛末
2    
3   一、 開催場所      新屋公學校
4   一、 期日         昭和七年九月十五日
5   一、 出席者       松尾視学外郡内校長並職員三十余名
6   一、 行事並に研究事項
7     ○実地授業  自午前九時十五分  話し方談話授業第一學年 魏訓堂
8                至十時
9     ○ヘ授者説明 自十時十五分
10                至十二時
11     ○批評会    自午后一時
12               至二時三十分
13   一、ヘ授者の説明
14     私の感謝、説明、希望として次の七ヶ條にわたる箇條書に申し上げる
15   1、   四十分間の熱苦しい所で我慢して下さったことに対しては深く同情すると ともに厚く御禮申し上げる。
16   2、 本日のヘ授でヘ授者がやはり一年生であったあることを知って貰った。
17   3、 學期早々で十分なる学習訓練が出来てゐなかったことを遺憾に思った。
18   4、  本日のヘ授に於いて予定案通りにやれなかったことは児童の心の動きに應じて臨機應変に取った処置であった。
19   5、    話し方の精神的作用の訓練が出来なかったため何時ものような活氣がなかった。
20   6、   台湾語による生活が自由であることが話し方指導上に少からざる支障を来 たして之が善処に困った。
21   7、   本日こそは見識卓越なる先生方の御懇切叮嚀なる御指導を仰ぐことが出来 るものと認む。どうか腹蔵なき御意見の開陳を望む。
 
22   二、質疑應答
23   1、 今學年のヘ授方針如何
24      イ、 児童生活に即したる興味ある材料によって近易な語句発表形式を習得せしめ、国語学習の興味を喚起すること。
25       ロ、 學習訓練上必要なる事項による聴解力の基礎的陶冶。
26       ハ、 聴音及発音機官の訓練を重視すること。
27       二、 話しに伴て近易なる礼儀作法の習得に留意すること。
28   2、 ヘ授案に書かれたる国語音とは如何なる意味か
29       別に意味はありません。
30   3、 全科取扱はどの位やる積りか
31       第一學期の大半は全科に取扱ひ通して来ました。
32     これからもやるつもりです。
33   4、 本ヘ材は第一學期の分らしいが如何
34            はい第一學期の終わりのヘ材です。第一学期のヘ材に於きましては第五週のセック第八週の海軍記念日第九週の始政記念日第十一週のもうオヤスミだけはその時にやりましたが、後は全部細目通りに順序を追ってやってきました。
35   5、 発音の練習の徹底如何
36            いつはらない口形を見せて正しく模倣させることは勿論、初期に於ては五十音圖の系列によって各音の練習をすることは固より或いは内容をとった語句についてその語義を味はしめつヽ発音調子等の練習をなさしむ。
37   6、 発音練習は毎時取り扱はれるか。
38       はい取扱ひます。
39   7、 ヘ授者の身振りについての反省はどうか。
40       1、、露骨しすぎて威厳をそこなった。
41       2、実際と合致せぬいやな下手な身振であった
42       3、これから注意して上手にやります、
43   8、 郊外に連れ出された時何か目当されてあったか
44       はいありました。
45   9、 マッスグナ木といはれたが何か考へあったか
46       ありません。
47   三、 批評
48 伯岡公 1、 児童に力がついてゐる。
49   2、 基本練習はよかった。
50   3、 啓培善導指導に於いて傘をたヽいたのはよくない
51   4、 本ヘ材を一学期にせられたら如何
52 大坡公 1、 学習態度の喚起は上出来であった。
53      2、  語のヘ授に跼蹐せられず同時に生活指導を周到にやられた?は結構であった。
54   3、  入學して半年にも立たないのに學習訓練の効果が顕著であるのには感服した。
55   4、 題材以外に相当語彙を拡充していゐる様に思ふ。
56   5、 発音訓練方面に物足りないところがあった。
57       例 マッスグ=マスグ
58        マガッテ=マアッテ マガアッテ
59 楊梅公 1、 ヘ案面に月日時限等を入れられたい。
60   2、 口形、発音の訓練は話方の時間毎にやられたい。
61   3、 発音が不充分又語尾が下る。
62   4、 ヘ便(ママ)物を見せる方法をもう少し考へられたい。
63   5、 直訳的語句の指導は絶対禁じられたい。
64 1、 語調は当學級の共通缺陥なれば矯正しなければならぬ。
65   2、 公學校ヘ育は国語ヘ育といっても過言ではない。時間中努めて国語を使用させたい。
66   3、 ヘ師の言葉遣は親切丁寧であってほしい。
67   4、 精神轉換を工夫されたい。
68   5、 ヘ授に愛と熱があった。
69   6、 他生をしてよく聽かしむるやうにされたい。
70   7、 賞言は不自然にならぬやうにされた。
71   8、 壇の昇降に於けるお互の挨拶の訓練をされたい。
72 1、 発音矯正の折りは口形を見せられたい。
73 觀音公 1、 児童の生活の中にヘ材を求め、ヘ授を進行されたることことは結構である。
74 2、 一年生としては止むを得ないが想いあって言葉が足りないやうである故にヘ材にのみ拘泥せず、折にふれて取扱はれたい。
75 3、 曲直の区別、洋傘の先は曲っているが身は直であると比較されたい。
76 南勢公 1、 熟語を乱造せぬやうに。
77 2、 サホはサヲではないか。
78 3、 本ヘ材はヘ室用語として四月に出されてあるから本時の取扱は広く
深くしては如何。
79 4、 ヘ授の入り方は曲直二線お同時に画いて授ける様にしたい。
80 5、 児童の拍手褒賞は児童に自発的にされたい。
81 新坡公 1、 黒板に曲直多様な線を書かれた方が良い。
82 2、 指名は児童の名前を用いられたい。
83 3、 ?物児童に見易いやうに示されたい。
84 大崙公 1、 口形練習と発音練習を充分に練習されたい。
85 小  1、 黒板を大切にされたい。
86 2、 教鞭物の後始末叮嚀にいされたい。
87 3、 ビリとかおしりがかゆいとかの言葉はつヽしまれたい。
88 4、 鞭で子供をさすことはつヽしまれたい。
89 近井校長 1、 小さい児童に見せるものはわかりよく見せられたい。
90 2、 ヘ室の美化は學年に応ぜられたい。
91 3、 ダ行の発音は甚だ不充分である。
92 宮嶋校長 1、 細目にあるが故にそれにとらはれる傾向あり。
93 2、 基礎訓練が不足している。
64 3、 舌頭を振はせることの練習。
95 岩見校長  1、 社會生活の態度則ヘ授の態度ならば社會生活の態度を反省されたい。
96 2、 室外に出る時の対象物をはっきりして置くこと。
97 3、 室外での指導は全生徒にやらせること。
98 郡視学 1、 本日の指導は熱心であった。
99 2、 地方化といふことに努力されたい。
00 3、 ヘ師の國語の修養に努力されたい。
01 但し2、3は會員一般への希望なり。
<文書49>を通してみて、この研究授業では「話し方」のため、『國語讀本』は使用していないものと思われる。話し方の授業では教科書を使わず、細目が教科書の代わりになっていたようである。それは3492の細目にふれているカ所からの推測である。もし教科書を使用している場合、教科書のどこかわかる記述があったものと思われる。                              
<4> 授業は昭和7年9月15日木曜日に行われた。                 
<5> 参加者は国語研究部会の会員と推測される。                
<7> 実施授業の担当は新屋公学校訓導魏訓堂である。              
<15> 授業時間として考えるならば、<7>から45分授業であったことが推測される。 
<16> ここでの一年とは教授者である魏訓導のことをさす。魏訓導は新屋公学校には昭和6年に楊梅公学校から赴任していることから新屋では一年という意味であることが推測される。
<17> 学期初めは9月1日(木)からで、この日の授業は新学期から二週間目に当たる。
<18> 魏訓導は昭和7年の学級経営案の「学級の現状」に嘆いている様子がある。  
<19> これも現状の「生活の急変から児童は言行に不活発になって子供らしい明るさがない。」に関係するか。                         
<20> ここで云う台湾語は客家語のことである。魏訓導はは客家系であったかどうかわからない。しかし、児童の日常語は現地語であることがわかる。       
<23> これは各教師必ず学級経営案を書いているので、そのことに対する質問と推測される。     
<24> から<27>は魏訓導が昭和7年の学級経営案の「経営事項」に記載したことである。
<28> 研究授業に際しての教案は<59>からも作成されていたと推測される。教案は『教育研究綴昭和五年度』には綴られていない。               
<30> <31>(全科の意味が不明)                        
<34> 研究授業を行ったカ所は節句は5月5日、海軍記念日は5月27日、始政記念日は6月17日である。
<40>から<42> 児童にジェスチャーで何か教えていたことが読み取れる。     
<43> 教室の外に連れ出している様子がうかがえる。               
<50> 啓培善導指導は生活指導全体のことか。                  
<53> 跼蹐(きょくせき=縮こまる)                      
<56> <57><58>発音の問題が具体的にされている。                
<60><61>発音の口頭練習をしていないことを指摘される             
<63> 台湾語での意味を教師が言って指導してることを指摘            
<64> イントネーションが共通しているため、その矯正を指摘される        
<65> 教師か児童が台湾語を話していることが指摘される             
<66> 魏訓導の児童に対する言葉遣いが荒いことが指摘される           
<69> ある児童に云わせても他の児童に聞貸せるような指示をあまりしていなかったのではないか。
<70> ほめることがわざとらしいところがあったのではないだろうか。       
<72> 当時の発音教授は口の形をまねることにあったと推測される。        
<73> おそらく、練習等に生活上の語彙を通して練習したものと思われる。     
<76> 教材や教授上において、程度にそぐわない熟語を云っていたものと思われる。 
<77> 教師の発音の矯正か。                          
<78> 授業ではよく教室用語を教えるようなことをしていたのであろうか。     
<79> 導入の仕方を指摘。                           
<80> 教師が児童に当てた質問に答えがあったとき、教師の指示で拍手を行ったものと推測される。
<81> 板書の仕方を指摘。                           
<82> どのようなことか不明だが、番号で呼んでいたと推測される。児童数はこの年の記録がないが昭和7年の3月の一年生は60人近い。新一年生も50人を超えていたと思われる。
<83> 実物教具の見せ方の注意。                       
<84> 発音練習に関しては<74>とおなじ。                    
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<85> 黒板をたたいていて指示していたのであろうか。              
<86> 教具の使用に関する注意と思われる。                   
<87>   魏訓導の口癖になっていたものと思われる。一方でののしり言葉には注意を払っていたことがうかがえる。               
<88> 児童を当てるとき鞭で指していることに注意をしたと思われる。
(「鞭は豫め掛圖等を指すものなることの觀念を得しめおくこと」という注意書きが細目にある。(*1))
<89> 実物教具の見せ方の注意。                        
<91> ダ行の発音に対する注意と思われる。                   
<92> シラバスにとらわれるなという意味か。                  
<93> 魏訓導の教授のことか。                         
<94> これも魏訓導のことか。                         
<95> これも魏訓導のことか。                         
<96> 何のために外で行うのか、そのことに対する学習目標の設定することを注意。 
<97> 外に出ると遊んでしまう児童がいることに対する注意か。          
<99> 郡のことをもっと意識して教授すべきという意味なのか。     
<00> 魏訓導を通して日本語力への注意と思われる。               
<01> これも魏訓導通して日本語力への注意と思われる。   
6・考察の結果                             
便宜上つけた101項の記録を傾向別に見ると 
発音話し方に関する項 18
聴き方に関する項
教授技術に関する項 33
教案教務に関する項
生活指導に関する項  
その他
 14以後から見ると、約4割が教授技術についての意見である。さらに発音も含めると約5割が技術と発音に関する意見である。これを中小、校長以外の発言で考えると、比率は6割へと上昇する。中小、校長以外の発言は台湾人の教師が大勢を占める。そのことを考えると、中小、校長との発言とは明らかに差があることがわかる。                                 
 更に整理していくと1,中小、校長の発言には発音・技術的な問題よりも、魏訓導自身に対する指摘、注意などがかなりの部分を占めている。低学年のためか、生活態度に対する意見が多い。2,ここでの一般会員は台湾人教師がかなりを占めるが、批評は個人に対するよりは授業内容にたいする指摘を行っている。3,全体的には教師の授業技術の向上について検討されている。
見た限りの資料で結論を言うのは時期尚早かもしれないが、認識の第一である教師の個人の努力であるということについては、一方ではそういう面もあったが、一方では組織的な研究授業が努力を維持していたと思える。思いもよらなかった理由として、特に客家系の多い地区では、必ずしも客家系の教師が教えるわけではなかった。この時代、福建系の教師は客家語を理解しているとはいえず、日本語を共通語としていかなければならなかった事情もあったように考えられる。新屋公学校の教師考査記録に広東語、福建語の理解度も記録されていたことから、理解度も重要視されていたように思う。
 第二の認識である学校での教学上の研究は各学校ごとに行っていた点については、新竹州新竹市郡管内では教育研究部会を設けて、頻繁に各学校に割り振りしながら、授業ために研究を続けていたことがわかった。そのことから各学校で独自にしていたのではなく、郡全体、州全体の課題として、取り組んでいたといえる。    
 第三の認識である台湾教育会は教師が個人加盟するものの、雑誌を通して、教授の向上、教員に対する啓蒙など行う組織であったという点については、雑誌は啓蒙の意味があったかもしれないが、この研究会自体が教育会の活動の一部であったように考える。しかしながら、台湾教育会が実際的にどのように現場に関与していたのか、その実態はつかめていない。研究会も地方レベルでどの様に展開されているかもはっきりわかっていない。新屋公学校の校長が台湾教育会の視学として南部に出張していることから、台湾教育会は校長も含めた組織であることがうかがえる。
総合的に考えると、今の時点で断言めいたことはいえないが、新屋公学校に残された文章からは、国語の授業研究は日本人が台湾人に日本語を教えるために行っていた研究会であるよりは、結果的に台湾人が自ら台湾人師弟に日本語を教える方法の模索になっていたのではと考える。
これが他の地方ではどうであったのか、比較対照してみなければならない。このことは日本人が直接教える構造ではなく、管理する立場にいる構造であり、教育の統治を台湾人を通して行っていたともいえるであろう。
6・まとめ・今後の課題と展望
今回の一文は先行現場の考証を行った。現場資料からは当時の教育に対する熱心さが伝わってくる。しかし、教授者が指摘を受けた箇所は所々自分の授業を指摘されているのではと思うところもあった。当時と今と変わっていないのは学習者と教師の関係である。
一方で植民地教育として、皇民化教育として、台湾人に対して行われた教育が日本人と対等なものではなく、支配関係が維持される教育であった。その点についても、あらためて、先入観なしにさらに検討していく必要を感じた。また、台湾内にある日本時代の資料発掘とその内容を読み取る研究者の育成が急務である。想像するに台湾内にはまだまだ未発掘の資料が眠っているものと思われる。郡の中で一カ所からでも、授業研究の記録が残っていれば、郡全体に共有されているものとして、対照がしやすくなる。しかし、資料が出てきても、その内容の多くは謄写であったり、自筆資料であったりするため、活字ではない日本語の読み取りが必要である。台湾の状況などを加味して、資料分析するには日本人だけでするのではなく、台湾人も自ら内容分析に当たる必要があるだろう。また、教育内容が日本語教育として考えられる以上、日本語教育の視点から分析する必要がある。公学校は台湾人教師が台湾人子弟に日本語を教える構造にもなっていたからである。そこでどのような日常があったのか、児童と、教師はどうであったのか、現場資料から当時の様子が、見えてくる。皇民化教育も学校内ではどのように進行したかも明らかにされていない。当時の教師は何をどのように考えていたのか、現場資料の教師直筆の文字を通して、実態がつかめるものと考える。また、台湾教育会の実態について、取り組む必要性を感じ、今後この方面からも当たっていきたい。     
<参考文献>
  何憶如『桃園縣新屋國小校史之研究(1905-2003)』(2003年6月)國立臺灣師範大學教育學系碩士論文
  泉史生「台湾の近代化と植民地政策としての日本語教育」(2001)2001年度修士論文   
  臺北師範學校附属校學校研究部『話方讀方公學校教授細目第一二年用』(大正14年)臺灣子供世界社
 『教育研究綴 昭和五年度』新屋國小所蔵                   
 『昭和八年學校經營案』新屋國小所蔵                    
 『昭和七年學校經營案』新屋國小所蔵                    
 『臺灣総督府職員録』                           
蔡茂豐 学位請求論文『中国人に対する日本語教育の史的研究−台湾を中心に−』(1977年)    
国府種武『日本語ヘ授の實際』(1939 昭和14年11月)東都書籍株式会社     
臺灣ヘ育会『臺灣ヘ育沿革史』(1939 昭和14年)臺灣ヘ育会          
戦前公学校と現国民小学との関連は各学校のホームページ上に記述されている「校史」にて確認。  
1(*) 1905年までに開校した公学校は167校(分校含む)、蕃童教育所2校、蕃人公学校15校が開校している。 泉史生「台湾の近代化と植民地政策としての日本語教育」(2001)2001年度修士論文表2
2(*) 何憶如『桃園縣新屋國小校史之研究(1905-2003)』(2003年6月)國立臺灣師範大學教育學系碩士論文
3(*) 新竹州市郡別公学校及児童調 昭和九年十月末日調 『新屋公学校教育研究綴昭和五年度』より
4(*) 台湾総督府第40統計書 昭和11年
5(*) 昭和七年學校經營案
6(*) 昭和七年學校經營案より考査表
7(*) 臺北師範學校附属校學校研究部『話方讀方公學校教授細目第一二年用』P8