日本史特殊研究レポート

サンフランシスコ平和条約中における竹島の取り扱い


1.はじめに
 このレポートでは、日本の占領・戦後処理に関する文書やサンフランシスコ平和条約草案における竹島の取り扱いを検討することで、日本・韓国それぞれの竹島領有権に関する主張を明らかにし、その主張内容について考えてみたい。また、アメリカを中心とする連合国の竹島認識をも考えることで、サンフランシスコ平和条約中における竹島の取り扱いに問題があったのではないかという提起をしたい。この時代の竹島問題に関しては、塚本孝の論考(1)があり、このレポートでも塚本論文に全面的に依拠しているが、Foreign Relations of the United Statesなど刊行史料に関してはできるだけ見直すように心がけた。(2)

2.両国の主張
 まず、この時期の竹島領有権に関する両国の主張を見ておこう。韓国側は領有権の根拠としてまず、1946年1月29日付連合国軍最高司令官総司令部覚書SCAPIN(SCAP Institutions)667号「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」の中で、「日本の範囲から除かれる地域として(a)鬱陵島、竹島」が規定されており、1946年6月22日付SCAPIN1033号「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」の中で、日本漁船の漁業区域を規定したマッカーサーラインの中にも、竹島は含まれておらず、覚書第3項bでは「日本の船舶及びその乗員は竹島(北緯37度15分東経131度53分)から12哩以内に近づいてはならない。また、この島とは一切接触を持ってはならない」と規定されていることをあげている。(3)サンフランシスコ平和条約に、これらの覚書に矛盾する規定がない以上、この覚書に示された連合国の意思はそのまま最終決定とされたのであり、竹島は日本領とは言えないと主張している。(4)これに対して日本側は、SCAPIN667号第6項「この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言第8条にある小島嶼の最終決定に関する連合国の政策を示すものとは解釈してはならない」、SCAPIN1033号第5項「この認可は、関係地域またはその他どの地域に関しても、日本の管轄権、国際境界線または漁業権についての最終決定に関する連合国側の政策の表明ではない」という規定から、サンフランシスコ平和条約前のこうした「一連の措置は、いずれも日本国領土の最終決定に関するものではない」ので、「竹島が日本の領域から除外されたものではないことは明白」と主張している。(5)サンフランシスコ平和条約の条文に関しても、朝鮮に含まれる島の中に竹島が特に言及されていないことから、竹島は日本の領土の一部であると反論している。(6)

3.初期国務省内の平和条約案
 戦後、対日講和に向けての条約草案がアメリカ国務省内で検討されていた。ポツダム宣言に基づいて、日本の植民地放棄が規定され、日本の領域を策定する作業が行われていた。1947年3月の最初の草案における日本の領域は次の通りであった。

 日本の領土的範囲は、1894年1月1日現在のそれとする。ただし、第2条、第3条…に示された変更を加える。すなわち、その範囲は、主要島である本州、九州、四国及び北海道並びにすべての沖合諸小島を含む。沖合諸小島は、千島列島を除き、鹿児島県下の琉球諸島、孀婦岩までの伊豆諸島、瀬戸内海の島々、礼文、利尻、奥尻、佐渡、隠岐、対馬、壱岐及び五島列島を含む。

朝鮮の放棄については同じ草案で、次のように規定されていた。

 日本はこれによって、朝鮮及び済州島、巨文島、ダジュレー島(鬱陵島)及びリアンクール岩(竹島)を含むすべての沖合小島嶼に対するすべての権利及び権原を放棄する。(7)

このように、竹島は日本の領域外に規定され、朝鮮の一部に含められていた。国務省内では、1949年11月までに5回草案が作成されている。それらの草案では、日本の領域に関する若干の変更はあったが、竹島の取り扱いは基本的に同じであった。初期の国務省草案においては、竹島を朝鮮の一部としていたのである。国務省がそうした根拠は何だろうか。おそらく、前述のSCAPIN667号によって、竹島が日本の範囲から除かれたことが、根拠になっていると思われる。日本に対して、それほど深く知識を持っていなかった国務省政策立案者(8)にとって、出先機関の政策は非常に参考となったのだろう。ただし、SCAPIN667号の根拠はどこにあったのか、それはよくわかっていない。(9)
話をもとに戻そう。1949年11月付の草案は、東京に派遣されているGHQ外交局長で、アメリカ駐日政治顧問ウイリアム・シーボルト(William J.Sebald)にも送付された。シーボルトは後に、講和条約・安保条約交渉をジョン・ダレス(John F.Dulles)国務長官特別顧問のもとで行っており、日本政府と最も接触を持つアメリカ人の一人であり、実質的な初代駐日大使と言ってもよい。(10)そのシーボルトは日本問題専任であったバターワース(Bttterworth)国務次官補への1949年11月14日付電報の中で、草案に対して次のような勧告をしている。特に竹島関係の部分は次のように勧告していた。

 第六条 リアンクール岩(竹島)の再考を勧告する。これらの島への日本の主張は古く、正当なものと思われる。安全保障の考慮がこの地に気象及びレーダー局を想定するかも しれない(11)

1949年11月19日付の正式な文書による意見書にも次のように書かれている。

 朝鮮方面で日本がかつて領有していた諸島の処分に関し、リアンクール岩(竹島)が我々の提案にかかる第3条において日本に属するものとして明記されることを提案する。この島に対する日本の領土主張は古く、正当と思われ、かつ、それを朝鮮沖合の島というのは困難である。また、アメリカの利害に関係のある問題として、安全保障の考慮からこの島に気象及びレーダー局を設置することが考えられるかもしれない。(12)

シーボルトは日本側の竹島への領有権主張は古く、正当であるので、条約において日本領とするように本国に求めた。シーボルトがこのように考えたのはなぜだろうか。ひとつには上記の史料からわかるように、アメリカの安全保障上の利害を考えてのことであった。これから日本との安保条約交渉をしようとするシーボルトにとって、日本に竹島を帰属させる方がアメリカにはメリットがあると考えたのだろう。もうひとつの理由として、シーボルトらアメリカ側に、日本からの働きかけがあったのではないかというということが考えられる。当時首相であった吉田茂は、講和交渉で、アメリカに「日本の主張の代弁者となって貰うため……十分な資料を米側に与えなければならず……領土問題に関する資料は、われわれの最も力の入れた資料の一つであった。沖縄、小笠原や樺太、千島、歯舞、色丹等の地域につき歴史的、地理的、民族的、経済的のあらゆる見地から、これらが如何に日本と不可分であるかを詳細に陳述した……領土問題だけでも七冊の資料となった」(13)と回想している。また条約局下田武三によれば、「日本固有の領土を確保するための、歴史的根拠に立った理論武装に重点が置かれた……日本固有の領土を返還してもらうのは当然という理論武装である。これに関しては条約理論に詳しい外務省条約局の川上健三氏が、各領土の史実を克明に調べて詳細な報告書を作成した……総司令部側は、平和条約に関しての日本の作成した文書を受け取ることは、ソ連を始め他の連合国側に対する気兼ねもあって、四六年頃までは躊躇したが、その後米ソの対立が激化する中で、右文書の価値がワシントンにでも認められるようになり、日本側文書を快く受け取るようになった。」(14)と言うのである。これらの回想によれば、日本側は条約案によって日本の領域に入るか、入らないかの微妙な地域に関し、その領有権の正当性を主張する資料集を作成しており、アメリカ側もそれを受け取っていた。これらの回想の中に、竹島の名を見つけることはできないが、七冊もあった領土問題の資料集の中に竹島に関する内容がなかったことは否定できないし、むしろあったと考える方が自然だろう。実際に作成された報告書を見つけて、検討する必要があるだろうが、こうした日本側の領土主張が、上記のようなシーボルトの主張につながって行ったのではないだろうか。

4.竹島の除外
シーボルトの勧告を受け、国務省は講和条約草案中の竹島の取り扱いについて変更することとなった。1949年12月29付草案では「日本の領土は、四主要島である本州、九州、四国及び北海道並びに瀬戸内海の島々、対馬、竹島(リアンクール岩)……を含むすべての隣接諸小島からなる。」としており、放棄する領土に関しても、「日本はここに、朝鮮のために、朝鮮本土並びに済州島、巨文島、鬱陵島及び日本がかねて権原を獲得したその他のすべての島嶼を含む、朝鮮のすべての沖合島嶼に対するすべての権利及び権原を放棄する。」と規定して、竹島の取り扱いについては今までの草案とは全く正反対の結論を出している。(15)シーボルトの勧告後、これがアメリカ国務省の方針として貫かれることとなった。1950年4月にダレスが国務長官特別顧問に任命されて、対日講和問題の責務を負うようになり、ダレスは50年8月7日付で「短い草案」を作成した。この草案では日本の領域内の島々を列挙することはなくなり、竹島の文言は削除された。しかし前述の国務省草案通り、竹島を日本の領域とする方針に変わりはなかった。(16)
一方、イギリスではアメリカとは別の形で講和条約案を作成していた。1951年4月7日付草案では、日本の領域を経度緯度で表示して規定していた。

 日本の主権は、次の線によって囲まれた区域内にあるすべての島、隣接小島及び岩に対して存続する。すなわち、北緯30度から北西方向へおおよそ北緯33度東経128度に至り、北へ進んで済州島と福江島の間を通り、北東方向に向かって朝鮮と対馬の間を通り、引き続き同方向に、隠岐列島を南東に竹島を北西にみて進み、本州の海岸線を沿ってカーブし(17)

これによれば、竹島は日本の領域外となっていた。これは竹島を日本の領域外としたSCAPINの影響を受けたものと思われる。また、イギリスは戦中、シンガポール陥落やイギリス人捕虜の取り扱いなど、日本から屈辱的な扱いを受けていたために、アメリカほど日本には寛容ではなく、むしろ強硬な態度をとっていた。(18)こうしたことが日本の領域を狭くしようとする要因になったのだろう。アメリカ・イギリス案が出そろったのを受け、1951年5月、両国間の協議が始まった。1950年の朝鮮戦争の勃発により、アメリカ国内では日本の戦略的な地位が高まっていた。アメリカはイギリスの経度緯度で日本の領域を表示する案は、日本を柵の中に囲い込むようであり、その心理的不利益を指摘した。イギリスはこの指摘に同意し、米英共同草案ではイギリス案の日本を線で囲む方式が落とされた。また、共同草案では「朝鮮の領土が済州島、巨文島及び鬱陵島を含む」と規定されたことにより、イギリス案では韓国の領域であるかのように認識されていた竹島が、アメリカ案にあるような、日本の領域内に含まれるよう認識された。

5.韓国側の修正要求
 竹島を日本の領域内に含む米英共同草案に対し、韓国は1951年7月19日、ヤン・ユンチャ駐米大使名で次のような意見書を提出した。

わが政府は、第2条a項の「放棄する」という語を、「朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む、日本による朝鮮併合前に朝鮮の一部であった島々へのすべての権利、権原及び請求権1945年8月9日に放棄したことを確認する」と置き換えるよう要望する。(19)

この意見書を受けたダレスとヤン大使の会談では、竹島の取り扱いについては次のような話がされている。

 ダレス氏は、独島及びパラン島2島の位置について尋ねた。ハン氏(レポーター注−駐米一等書記官)は、これらは日本海にある小島であり、だいたい鬱陵島の近くだと思う と述べた。ダレス氏は、これらの島が日本の朝鮮併合前に朝鮮のものであったかどうか尋ね、大使は肯定した。ダレス氏は、もしそうであれば条約中の日本による韓国領土権放棄に関する適当な箇所にこれらの島を入れることについて、特に問題はないとした。(20)

このダレス・ヤン会談では竹島が韓国の領域に組み込まれるように見えた。ところがアメリカ政府からの正式な回答は、それまでの国務省の方針に基づき、会談とは全く違った内容のものであった。

独島または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩礁は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄下にあります。この島は、かつて朝鮮によって領土主張がなされたとは思われません。(21)

アメリカは竹島の取り扱いについて韓国側の要求を拒否し、日本の領域内に入れることを選択した。結局、サンフランシスコ平和条約でもこの方針が貫かれることとなる。では、これら一連の動きがどのような意味を持つのだろうか。韓国側による竹島を韓国の領域に含める要求には、裏を返せば、日本が放棄する朝鮮の領域に竹島の名前が入らなければ、竹島が日本の領域に入ることを認めていることとなる。そのために、竹島が韓国の領域にあることをダレスに説明し、条文中に竹島の文言を挿入することを求めたのである。ということは、2で検討した韓国側の主張には無理がある。平和条約中にSCAPINと矛盾する項目がないから、その覚書の方針が貫かれたという韓国の主張は明らかに誤りである。一連の交渉は、条文に竹島が含まれないということは日本の領域に組み込まれるという危機感に基づいたものだったからである。さて、これらの動きにはもうひとつの意味がある。それは講和問題を担当したダレスの、極東に関する「無知」の問題である。韓国側との会談ではその主張を何の検討もなく、国務省でのそれまでの方針も知らなかったのか、韓国の主張を受け入れている。これはダレス個人に限らず、アメリカ国務省の政策立案者にとっては日本や韓国に対する知識は同じ様なレベルであった。もちろん竹島というのは小さな岩礁であり、そこまで詳しく知っているアメリカ人は少ないだろう。しかし、極東に対して、それくらいの認識しかないアメリカによって決定されたサンフランシスコ平和条約を基に、その領有権主張をするにも問題をはらんでいると言えるのではないか。

6.まとめ
 サンフランシスコ平和条約中では、日本が放棄する朝鮮の領域に竹島は文字はなかった。アメリカ側は竹島を日本の領域内に入れるために、この措置を行ったのは事実である。その方針は、自国の利害を考え、日本による領土主張を受けたシーボルトの勧告がきっかけであった。国務省政策立案者は日本や韓国について、それほど知識を持っていたわけではなかったので、この出先機関からの勧告を重要視したものと思われる。韓国側は竹島の条文からの除外によって、竹島が日本の領域と認定されることをおそれ、アメリカと交渉したが、その交渉は失敗に終わった。サンフランシスコ平和条約では竹島は日本領と認定されたと言える。しかし、その条約を作成したアメリカ側の、竹島への知識は本当にあったのだろうか。アメリカは第3者的な立場に本当に立てたのだろうか。このような疑問点が残るのも事実である。


【注記】
(1)塚本孝「サンフランシスコ条約と竹島」『レファレンス』389 1983年
    同 「平和条約と竹島(再論)」『レファレンス』518 1994年 
(2)Foreign Relations of the United States(以下、FRUS)はアメリカ国務省の外交文書集である。ここで使用したのは、1949年Z(名古屋大学法学部蔵)、1950年Y(愛媛大学図書館蔵)、1951年Y(愛知大学車道図書館蔵)である。史料は英語で書かれているので、本文に引用するときは基本的に塚本の訳を引用した。一部、レポーターが書き直した部分もある。
(3)覚書に関しては、『日本占領及び管理重要文書集』を参照。
(4)塚本前掲論文
   外務省ホームページ「竹島問題」
朝鮮については第2条aにおいて、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定されており、ここに竹島の文字は含まれていない。
(5)前掲、外務省ホームページ
(6)塚本前掲論文 「1953年7月13日付竹島に関する日本政府の見解」
(7)塚本前掲論文 原文書は、米国立公文書館蔵RG59,Decimal File 1945-49,Box 3153, 740.0011 PW(PEACE)/3-2047.
(8)この件につき、武田清子『天皇観の相剋』岩波書店 1978、中村政則『戦後史と象徴天皇』岩波書店 1992などを参照。
(9)塚本前掲論文
(10)講和条約・安保条約交渉の際のシーボルトについては、豊下楢彦『安保条約の成立』岩波新書 1996を参照。
(11)FRUS 1949Z
(12)塚本前掲論文 原文書は、米国立公文書館蔵RG59,Decimal File 1945-49,Box 3515,740.0011 PW(PEACE)/11-1149.
(13)吉田茂『回想十年』第三巻 新潮社 1957
(14)『戦後日本防衛問題資料集』第一巻 三一書房 1991
  原文は下田武三『戦後日本外交の証言』行政問題研究所 1984
(15)塚本前掲論文
(16)FRUS 1950 Y
(17)塚本前掲論文 原文書は、英国公文書館FO 371/92538,FJ 1022/222
(18)ピーター・ロウ「困難な再調整−1945-1958年の日英関係」
   木畑洋一他編『日英交流史1600-2000』第2巻 東京大学出版会 2000
(19)FRUS 1951 Y
(20)FRUS 1951 Y
(21)FRUS 1951 Y



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